小鳥はそんな二人のことを歌っているチュンチュンパパパチュチュンチュチュ…

トルコのことに思いを馳せる。いつも馳せ続けて、馳せ慣れている。トルコと言って思いつくことなど、せいぜいトルコ風呂とかトルコアイスとかそのぐらいで、トルコの人が何語を話すのかとか、トルコには何人が住んでいるのかとか、そういったことはほとんど知らずにトルコのことを考えているけど。

トルコで生まれ、トルコで育った人たちがいる。僕は日本から出たことがないけれど、そんなような人たちが、いる。のを知ってる。少なくとも、知ってる。


とかそういうのはどうでもいいんですけど、ノイズ・ミュージックをやっている人のブログを見ると、録音や演奏はグジュグジュなのに、日記ではけっこう日常で起こった普通のことをぱらぱらと書いているだけのものが多いような。文体は頭おかしかったりするですけど。日常というか、普通にヒトが生活しているスペースには不思議なものやサイケなものはなかなか見つからないので、普段は自分自身がそういうものになってしまえば的な発想が働いているのかな。

商業音楽でファンタジックを歌っている人と、前衛音楽でサイケデリックを歌っている人とで、どっちがロマンチックな自由度に長けているかというと、後者の方が断然発想の発着点は飛びまわっていそうだけれど、実はそうでもないような。

前衛芸術というのはどうにも、感情に直結させてわけのわからない共振を誘えるタイプと、パンク的な理論武装を下地にしたり、わざとばかばかしいことや暴力的なことをやったりして共感を誘えるタイプに大別できるような気がして、しかし感情型の方は、ともすれば芸術としてのアイデンティティはズレて商業音楽側に傾いてしまいがちであるため、結果として後者の方が生き残っているというか、末永くアバンギャルドとして認識されていることになる。

そうなってくるとこっちも大変で、なかなか評価されないのは覚悟の上でやっていても、というか、覚悟の上でやっているからこそ、社会の中での自分の立場なんかも気になってきたりして、常にそういう政治や社会のシステムなんかを意識しながら作品を作ることに、不本意であってもなってきてしまう。つうか、まるでわけのわからない芸術がちゃんと評価されるためには、ある程度リアルと繋がった部分をチラつかせていたり、それぞれの分野の文脈の中でジャストなタイミングで生まれたことを裏づけるものが内包されていないといけなかったり。

要するに時代背景や当時の経済事情を意識して鑑賞せざるをえない、社会的な、わりとリアル側に近い芸術だと思うのです。だから下手をすると、アバンギャルド志向でやっている人たちより、商業音楽で食っている人たちの方がロマンチックで、自由度の高い作品を、まとまった状態で作り上げているということも、たまに、あるということに。


自然と脳内に生まれてきたものを形にしていれば、評価云々は気にせずに創作することができる、と言ってしまえればラクだけれど、なかなかそれを続けるのも難しいのかもしれない。だって評価されないからね。なかなか評価されないからね。

それでもチラチラまわりを見ながらやるぐらいのことは、本能の範疇だと思うので、そんなことも含めて考えて自分は自己中心的にやっていかないと、くやしいままですよ、とか考えたのです。たのです。だけです。テレレレトゥルットゥチュッチュー ン


>ローション富フィーヌ氏
傘の柄の曲がったところを男子の股間にひっかけてグイッと引き抜くパラソルガール